パラリンピックを見ていて。
24時間テレビを見て感動してる人は、
パラリンピックを見るべきだと思った。
この前の24時間テレビの裏で、
Eテレのバリバラが、
障害者の姿を感動的に仕立て上げることを、
欧米で「感動ポルノ」と呼ぶことを紹介した。
僕はそれと同時に、もうひとつの問題として、
多くの人が「感動ポルノ」しか、
障害者を目にしていないという状況が、
良くないんじゃないかと思った。
言い方がちょっと悪いかもしれないけど、
大事なのは、パラリンピックを見ていると、
障害者の存在に「見慣れること」が、
すごく大事なことだと思う。
日本人が昔、外国人を見ただけで、
特別なものだと感じていたのが、
今や外国人がどこにでもいて、
ハーフの子もいっぱいいる中で見慣れて、
上に見る人も、下に見る人も減った。
それと同じように、
手がなかったり、足がなかったり、
目が見えなかったり、体にマヒがあったり、
それが容姿として少数派で特別に思うから、
上に見る人も、下に見る人も減らない。
パラリンピックを見ていると、
出ている選手がみんな障害を持っているから、
障害を持つ人がいる世界が普通になる。
目が見えない人の表情、
手や足がない人の体の切断面、
動かずやせ細った足など。
そうした人が普通にいるという感覚を持つことが、
障害者と一緒に暮らす社会として、
すごく大事なことなんじゃないかと思う。
NHKのパラリンピック中継は、
スポーツとして、淡々と競技が続いている。
どんな障害を持っているかは、
感動させるための道具じゃなくて、
競技を不足なく伝えるための情報。
その選手はどんな障害を持っていて、
どんなきっかけでその障害を持つことになったのか、
最低限の情報をふまえたうえで、
どう競技が行われているか解説される。
その中で、感動や驚きは自然に生まれる。
競泳では両手がない分、水の抵抗を受けずに、
背泳ぎのバサロがめちゃめちゃ速い選手がいた。
卓球ではやはり両手がない選手で、
口でラケットをくわえて返しまくる選手がいた。
過剰な演出なく、見ていて面白い。
障害を持っている人は、
特別な存在であっていいと思う。
不便な人をサポートするのは当然のこと。
ただ“障害者がいること”が、
特別じゃなくならないといけない。
外国人に親切にするのと同じ。
道を聞かれたら、日本人相手以上に丁寧になるし、
外国人がちょっと日本人と違う行動をとっていても、
文化が違うからねと許せたりする。
パラリンピックは、もちろん地味なスポーツもあって、
つまらなかったりするかもしれないから、
面白そうな競技だけでも見ると、
いいんじゃないかなと思った。